3つの文化を持つ地域

オリーブの栽培はフェニキア人とギリシャ人の入植によってもたらされたものですが、トレド山脈地域が著しい進歩を遂げたのはローマ帝国時代の事でした。この地域では、こういった3つの文化が何世紀にも渡って共存してきました:ユダヤ教徒や、イスラム教徒、そしてキリスト教徒も間違いなく発展に寄与してきました。

オリーブ栽培が著しく発展したのはローマ帝国時代後期の事で、その存在はシエラ・デ・グレドス山脈の南部でも知られるようになりました。イスラム勢力が進行してきた時代のトレド山脈とラ・マンチャ地方のオリーブ畑に関する一般的な記録は殆ど無いので、こういった地域ではオリーブ畑が少なく、存在していた可能性のあるオリーブの数も限られたもので、主に点在する現地民が消費するために栽培されていたと推測されています。

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トレド山脈に関するモサラベ語の文書にはオリーブ畑に対する記述がありますが、そこでも大規模な栽培は行われていなかったとされています。タラベラ・デ・ラ・レイナにはオリーブの栽培が盛んに行われていたという確かな記録があります。こういった記録は少ないですが、トレド王国におけるオリーブの栽培は非常に有名で、その事はIbn Waficの農業条約にも反映されています。ですが、こういった条約からは、この地域のどれくらいの面積でオリーブが栽培されていたかを正確に特定する事はできません。「Spain of the Catholic Kings」では、オイルと酢を使ったアンダルシア風の冷たいスープ(ガスパチョ)が、この地域の基本的な食事の一部だったとされています。その後、作家のAlonso de Herreraが、Agricultura General(一般的農業)と題された4巻の書籍の中でオリーブとオリーブオイルの重要性を強調しました。こういった事からは、その後の100年間でオリーブの栽培が著しく発展した事をうかがい知る事ができます。

16世紀には農業が発展した事によって耕作地が大きく拡大しました。オリーブは当時の自給自足的な流行に従って最も貧弱な土壌に植えられていました。ですが、政治的および制度的な障壁と、当時の支配階級の一部だった牧畜農家かたの反対が相まって、オリーブが荒廃した地域の土地を独占するという特権が妨げられました。現在シウダード・レアルと呼ばれている地域では、ピエドラブエナなどの村の周辺でオリーブ畑を作る他ための規定が提起されました。ですが、オリーブの栽培が大きく発展する事はありませんでした。トレド地域では、トリホスと、サンタ・オラージャ、そしてバル・デ・サント・ドミンゴによって形成される三角地帯や、西部のタラベラなどの地域でオリーブ栽培の伝統が確立されていきました。

17世紀におけるオリーブ栽培の発展は僅かなものでしたが、持参金や、売買契約、地籍図などの当時の多くの文書が現存しています。1575年から1580年に作成された「フェリペ2世の歴史的-地理的関連性」という書籍では、テージョ川沿いでのオリーブ栽培の分布状況が記されています。こういったオリーブ畑は、現在、保護原産地とされている地域を構成している多くの市区町村に存在したとされています。こういった地域におけるオリーブ栽培の重要性は18世紀に大きな変化を遂げ、農家の副次的な活動から重要な事業になりました。この変化は、18世紀に発生した人口の増加と農業の発展を主な理由としていました。1748年と1779年に出された森林再生に関する国王令には、モラ村やその周辺などのそれまでオリーブ畑が存在していなかった地域におけるオリーブ栽培の方法に関する記述があります。この時代のオリーブ畑には以降の世紀でのような重要性はまだありませんでしたが、この時代にオリーブ栽培が発展したという明らかな証拠が残されています。一方で、こういった記録からは市区町村間の統一性や境界線の不明瞭さも見てとる事ができます。この時代には、ジェペスや、ドスバリオス、そしてビジャルビア・デ・サンティアゴなどの市区町村で20,000ファネガ(約16,718ヘクタール)のオリーブ畑が存在していました。トリホスの三角地帯におけるオリーブ畑の重要性はとどまる事を知らず、とりわけ1782年の収穫高は著しいものでした。ラ・サグラ地方ではオリーブ畑と共にブドウ園も重視されていました。

また、この100年間でオリーブ畑はシウダード・レアルの北部に位置するトレド山脈地域でもゆっくりと増加しました。栽培のために選ばれたのは限界地域で、生産形態の大半も自給自足でした。

こういったオリーブ栽培は一般的に小規模で、植えられた木の本数も100本以下でした。オリーブは地方部の境界線の内側に植えられていました。興味深い事に、当時の有力な作家たちが栽培技術に関する書籍を著しており、そういった書籍によってオリーブ栽培の重要性が高まりました。この事はNicolás de Bargasが執筆した「Memoria sobre el modo de sacar aceite a costal」に見てとる事ができ、この書籍では生産されたオイルの品質に関して多くの言及がなされています。この書籍名を翻訳するとすれば:「コスタル方式を用いたオイル生産方法に関する記録」となるでしょう。この書籍には、オリーブを圧搾する前に 「コスタル」または「タレガ」という袋を使うという記述が含まれています。また、この時代からはオリーブとオイルの所有権や売買に関する文書も数多く残されています。

19世紀には、土地の所有が自由化された事とオイル価格が向上した事によってオリーブ栽培の発展が継続しました。18世紀の終わりにはフランスはオイル輸出国となり、イギリスへの輸出が増加しました。19世紀の後半には、栽培方法の変革や、生産、取引、そして国内消費が推進されました。友好国における経済社会」では、こういったテーマに従ってなされた技術研究が紹介されています。辞書の「マドス」では、ここまでに紹介してきた主な地域以外にもオリーブ畑が存在したとされており、オリーブがトレド山脈地域において既に栽培が導入されていた地域の外側でも増加していた事が示されています。例えば、タラベラにおける1年間の生産量は平均で25,000カンターラ(400,000リットル)だったとされています。

Tomás Echevarría y Mayoは、その著作「プエブラ・デ・モンタルバン村の医療地理的調査データ」で、この地域では1,096ヘクタールの面積がオリーブ畑として使用されていた事と、1年間に生産された「高品質な」オイルが20,000アローバから25,000アローバ(230,000㎏から287,000)に及ぶ事に言及しています。その後、1890年から1912年の期間ではやや停滞しましたが、カスティーリャ・ラ・マンチャの他の地域よりは停滞は遥かに緩やかでした。

1907年からはオリーブ栽培面積の回復とオイルの品質の改善が見られただけでなく面積当たりの収穫量も増加した事によって、先の低迷期が相殺されました。トレド山脈地域で「飛躍」が起こったのがちょうどこの時期でしたが、気候が今よりも大陸的で土壌も貧弱だったためにアンダルシアの収穫量には及びませんでした。

この時代のオイル生産における2つの重要な地域は、モラとロス・ジェベネスでした。最初に見つかった当時の資料はイタリアへの輸出に関するものでした。イタリアに輸出されていたのは料理に混ぜるために使用されていた高品質オイルで、このオイルは1種類のオリーブ種から作られていたとされています。ラ・カナダ・デル・カスティーヨと呼ばれるこの地域は、オリーブ栽培に完全に専念するようになりました。驚くべき事に、トレド山脈地域全体ではオリーブ栽培に使用される面積に大きな変化は無く、より具体的に言えば先の数世紀に出現した農地では大きな変化はありませんでした。他の地域で起こった事とは違い、新しいオリーブ栽培のための土地は、それまでは穀物やブドウ園のために使用されていませんでしたが、開墾地では確立されました。この事によって、小規模な土地や中規模の土地の所有者に、多くのオイルを生産できる展望がもたらされました。この拡大は1950年まで継続しました。Luis Moreno Nietoが著した「トレド県」(1960年トレド州議会刊行)という書籍では、オリーブ栽培とオイル生産がこの地域で非常に重要だった事が記されています。この書籍は、この地域の村々の大半には大量のオリーブオイル工場が存在した事が記されているだけでなく、輸出品としての重要性とオイルの品質に対する他国からの賞賛についても言及がなされています。

この時代には、トレド県のモラ市で「オリーブ祭り」が始まりました。このお祭りは国内で非常に有名になったこの地域のオリーブ栽培の高い重要性を反映して今でも催されています。

20世紀の後半にはオリーブ栽培における新たな低迷期がありましたが、これは主に他の生産地よりも生産量が少なかった事に起因していました。

それでもなお、この地域の古き良き伝統的なオリーブ栽培方法は技術的な改善を通じてコストが削減され、この数十年ではオイル生産技術が近代化されてきました。こういった改善や近代化によって、最高水準の品質や、品質の安定性、そして最高の衛生環境での生産などが保証されています。最高のオイルを生産するために、抽出や保存のための最新技術の導入によって各施設が刷新されただけでなく、最も細かな細部まで徹底的なケアがなされています。